お供養について

2024.06.01

お供養について

大事な故人への自己の想いを伝える「お供養」は遠き昔から行われ、その形は変化はしてきているものの失われずに今日まで脈々と伝わり、行われています。

「生老病死」、生まれた新しい命に喜びと感謝を伝え、老いて行く人への思いやりを忘れずに、病んだ者への慈悲の心も忘れずに、人の最後のお送りの儀式「葬儀」を勤め、残された者は先に旅立った大事な方への想いを忘れずに、その気持を伝える「供養」を致しています。

その供養の心は、それを致さねば自分に良からぬ不利益が降りかかるから致すのでは無く、大事な故人を慕う、その自然な想いが供養を致すのです。

水子供養を思います時、少し前までのこの国の所謂、「水子供養」は愛しい亡き赤ちゃんを追慕するお供養ではなく、亡くなった水子さんの供養をせねば、残っているこの私たちに「禍」が寄ってくる、それを避けるためには供養をせねばならぬとの不遜な理由にて水子供養が声高に言われた時代がありました。

その時代背景には、日本の高度成長に伴う私たちの生活の向上、楽しみの増加があり、それを保つために、「禍」が来る前にその原因を取り除いておきましょうという間違った思いがあったように感じています。

又、その風潮に便乗致したお寺も少なからずありましたので、「金儲け主義の寺」との批判も随分とあったようです。

しかし、水子供養をなされているお寺の多くは、けっしてそうではなく、失われた命の重みは、お腹から生まれた後の命も、お腹から生まれてくることが叶わなかった命も同じ大切な命との想いから、失われた命へのお供養をなされていました。

私はそこの時代の経験がありませんので迂闊な批判を致すつもりはありませんんが、供養の大事な部分は今の時代は当たり前に大事な私の分身の亡き霊(みたま)を追慕、供養致すのですという所は間違いありません。

その様な想いで蓮華堂へお越しの皆さんはご自身の地蔵尊へ想いを込めお参りなされ、亡き赤ちゃんが喜ばれるお供えをなされています。

だからこそ、蓮華堂、絆縁堂は生き生きとしたお供養の場となっているのです。

只、近年に気になる問い合わせが少し、有ります。

電話で「供養はするつもりがありませんが、水子さんが何かさわりを致すと困るので、お堂へ手合わせだけして、それを避けたいのですが、行っても良いですか」とのお尋ねが稀ではありますが有ります。

この時代にまだ、と思ってしまう問い合わせです。

お亡くなりの無垢な命への本当に失礼な問合せと憤るのですが、「どうぞ、お参り下さい」と申しあげています。

お堂へお越し頂き、お参りの皆さんのお供え、ご自身の地蔵尊を大切になされている景色を見て、自身の浅はかな思いに気づいて頂ければと願うばかりです。

お供養の大切な想い無くして、お手合わせをなされてもそれはただ「手を合わせて」いるだけなのです。

是非、お供養の想いを自身に問い掛けて頂きたく願います。合掌