亡き赤ちゃんへ届ける、陰徳の供養

2024.05.08

亡き赤ちゃんへ届ける、陰徳の供養

「供養」という言葉をご自身が想い描くとき、多くの皆さんは先ずは僧侶の読経、亡き故人へのお供えを思うのではないでしょうか。

故人が宿る位牌、又、故人が眠る墓前、水子供養へお越しの皆さんにおいては、蓮華堂、絆縁堂に奉納なされた各家の地蔵尊、そして各お堂の御本尊地蔵尊へ灯明、線香、そして亡き赤ちゃんが喜んで下さるであろう、可愛らしいお花、お菓子をそこへお供え致すことと思います。

勿論、私の供養の気持を亡き赤ちゃんへ届けて下さいと、僧侶と共にお手合わせ、焼香をなさる事、お堂へ足を運び、赤ちゃんの好きな供物をお供え致し、届けて下さいとお手合わせを致すこと、大切なお供養であることは間違いありませんし、これからも継続致し、大事な亡き赤ちゃんへその心は届け続けて頂きたく思います。

過日、「このようなお供養」もあるのですねと感じることがありました。

蓮華堂脇の子安地蔵尊、此方はお焚き上げいたした地蔵尊、エコー写真の灰の一部を地蔵尊の下に埋葬致しています。

お堂内は勿論ですが、此方の地蔵尊へお参りのお方も絶えることなく多くの皆さんがお参り下さっています。

そして、その横の「みんなの花壇」は造りました最初の頃こそ寂しかったですが、今は私たちが手を出さずとも、花は常に溢れ、草も綺麗に抜かれ、水やりさえ「ジョロ」でお参りの方がなさって下さっています。

此方も、亡き水子さんが本当に喜んで下さっているであろう「お供養」です。

さて、夕方にお堂の様子を見がてら、掃き掃除をと思い、蓮華堂へ赴きました。

お堂内のゴミ箱を片付け、お堂右外の子安地蔵へ行き、掃き掃除を致そうと、塵取りと箒を持ち立ちますと、地蔵尊の前に葉っぱが殆ど落ちておりません。

子安地蔵尊の横には大きな、樹齢の長い「もっこくの木」が有ります。

この時期は葉っぱが新しい葉っぱと入れ替わる時期です、掃いても、掃いても落ち葉がそこに有る状態が続く季節です。

あれと思い、外のゴミ箱を見ますと溢れるばかりの葉っぱが入っています。

此処には「みんなの花壇」用にジョロ、スコップ、掃き掃除用具が自由にお使い頂きます様常設致しています。

「どなたかが、お参りにお越しになられ、地蔵尊前を掃き清めて下さったのです。

陰徳(いんとく)

禅の教えの中に、陰徳を積む(いんとくをつむ)という言葉が有ります。

修行道場の中では勿論、修行を終え、寺に戻っても忘れてはならぬとされる言葉です。

他者に見えるように、又、それを「アピール」することなく、人が喜んで下さること、又、有難いと感じることを人知れず行いなさい、そして、その行為を少しづつ積み上げて行きなさい、それはそのまま「仏道を行じている」ことなのだよという教えです。

子安地蔵尊の前の落ち葉を掃いて下さったお方は此処にいる自身の亡き水子さんの為になされたのだとは想像致しますが、それは同時に「陰徳」であり、お供え物を致す供養とは別に、亡き赤ちゃんへ届く「大切な供養」なのです。

多くの皆さんとご縁を頂き、お堂をお守り致していますと「仏道」とはとの答えを多く頂く機会を得て、有難いことです。合掌