「こんにちは」の一言が人と人の距離を近づけます。

2023.04.20

「こんにちは」の一言が人と人の距離を近づけます。

挨拶の大切さは過去にもお話を致しました。そもそも「挨拶」という言葉は仏教の教えから来ている言葉ですが、そのようなことは思いもかけぬほどに当たり前に日常で使われ、常識以前の言葉となっています。

しかし、先に申し上げましたように元々は仏教の言葉から来ているほどに大切な言葉です。

ネットの検索でもすぐ出るように、「挨」(あい)は押す、「拶」(さつ)は迫るという意味を持ち、本来の意味としては、自己の全霊を掛けて相手に迫り、この私の気持を伝えるという、迫力のある言葉なのです。

だからこそ、挨拶を通して、今まで縁の無い方、縁の薄い方と一度に距離が近くなるのです。

さて、過日に霊源院の外、塀の周りを掃き掃除致しました。この時期、椿の花、特に樫の葉っぱが新芽と入れ替わりに、掃くお尻から、落ちてくるほどの辛さです。しかし、道行く皆さんに気持ちよく歩いていただく為にも、なるべく掃き掃除を致しています。それでも、60才の後半にもなりますと、若い時のように、常に綺麗にはいきません。

それでも、体調の良い時は、竹ぼうきを持ち、葉っぱを集めています。

さて、京都はこの時期修学旅行の時期です。昔と違い今の中学生の皆さんはグループごと、5人位でタクシーに乗り、お寺巡りをなされます。

東福寺もこの時期は多くの地方の中学生がお参り、拝観にお越しになられます。

外の掃き掃除を致しています時、女子中学生と混合で5人程のお子さんが賑やかに歩いてこられました、そして、すれ違いざまに「こんにちは」と大きな声で挨拶を下さいました。

私も思わず大きな声で「こんにちは」とお返ししますと、彼らがニコニコと本山へ向かわれました。

会話を致したわけではありませんが、他府県からお越しの全く縁の無い中学生の皆さんが一度に近くに感じました。

のびのびと育っておられる方々を微笑ましく感じると共に、たった一言の「こんにちは」の言葉がこれ程にお互いの距離を近づけるという事を教えられました。

水子供養で蓮華堂、絆縁堂へお参りの皆さんは欠かさずに、お会い致しますと同じく元気な「こんにちは」のご挨拶を下さいますが、これからもこの言葉の大切さを胸に置き、お会い致しました時は、明るい、元気な挨拶を頂戴出来ますことを心より願います。

同じく、仏教の言葉「愛欲」。

愛という言葉も最近は思いの深さを表す、前向きな言葉として使われていますが、本来は此方も仏教から来る言葉で、「執着」、強いこだわりに繋がる、どちらかと言えば、マイナスの意味を持つ言葉でした。

現在は大切な人への深い思いを示す言葉として普通に使われています。

そして、同じく「愛欲」という言葉があります。

先日、その「愛」とこだわり「欲」を思い起こさせるお言葉を蓮華堂へお参りのお方から知らされました。

蓮華堂横にある、皆の花壇、花が絶えることなく皆さんがお花を植えておられます。お亡くなりの赤ちゃんの喜びが見える程、綺麗な花で埋まっています。

しかし、伺った話は「私が植えた花がまだ枯れてもいないのに、それを抜いて、どなたかがそこへ花を植えてました、本当に悲しい気持ちで一杯になりました」とお話し下さいました。そのお方は静かに話され、怒りは感じませんでしたが、「とても悲しい気持ちに」というお言葉は私の胸に迫ってくることでした。

愛を持ち、お亡くなりの赤ちゃんへお供えの花を植えることは何よりのお供えですが、どなたの赤ちゃんも同じに大切な存在です。

私の赤ちゃんに花が届けばという行為に通じる行いは、愛を超えて「愛欲」の領域ではないでしょうか。

私の亡くなった大切な赤ちゃんと同様に、他の皆さんのお亡くなりの赤ちゃんも共に大切な存在という気持ちを絶対に忘れずにお参りなされましたら、愛欲ではなく、真の愛に満ちたお参りとなり、良きお供養となるのではないでしょうか。合掌