「我慢」という言葉。

2022.10.22

京都東福寺霊源院の水子供養ブログ

「我慢」という言葉

先日、お参りへ行く為、裏の玄関を出ましたところ、蓮華堂へ水子さんのお参りへお越しの親子連れのお方がおられ、保育園か幼稚園くらいの男子と池の辺で、お母さんが「後でね、少し我慢なさいね」と優しく語っておられました。どのようなことを男の子が「むおねだり」なされたのかは解りませんが、お母さんに頼み事を致し、我慢しなさいと言われたように聞こえました。

小さいお子さんにはよくあることかと思います。

只、それをお聞きいたし私にも思い当たる事が。

実を申しますと、私はお酒が好きで普段は晩酌を欠かすことがありません。

しかし、ここ数日、胃の具合が悪く暫くはお酒を口に入れていません。

飲みたい気持ちはあるのですが、胃の具合と相談致し、此処、暫くは申し上げましたように「我慢、我慢」の日々が続いています。

お酒に向き合える日を心待ちに致す日々です。

さて、その「我慢」という言葉は仏教に関わる言葉ということはご存知でしょうか。

ウキペディアを見ますと、我慢(がまん)とは、仏教の煩悩の一つ。強い自己意識からおこす慢心のこと。

現在、一般的に自分自身を抑制し、又、耐えるという「忍耐」の意味で用いられる「我慢する」は、もともと「我意を張る」などという強情な心意を介した転用で、近世後期から言われるようになったとされているとあります。

私も含め皆さんの多くも我慢イコール辛抱ということで普通に使っています。

先にお話し致したお母さんもそのように勿論使われてます。

しかし、見方を変えましたら、自分の主張を変えずに、「ダダ」をこねるお子さんは仏教でいうところの「我執(がしゅう)」に囚われているわけですから、反意語の意味であなたの我を我慢しなさいなのかもしれません。

子供さんは我慢できずに当たり前の所もありますが、私達は我慢という言葉を反芻(はんすう)致し、日々の生活の中で、私の「我執」に囚われ、他人に迷惑、不快な思いをさせてはいないか、自己を点検致すことが必要かもしれません。

私も、飲みたい、飲みたいに深い反省を致さねばなりません。

花屋さんに感謝申し上げます。

霊源院ではご存知のように蓮華堂の中、お墓の手前の地藏堂の中でお墓用、そして、水子さんへのお供え用のお花を提供致しています。

女性が店主の花屋さんが毎週、水曜日と土曜日に中京区のお店から届けに下さっています。

忙しい中、お参りの皆さんへの利便を保つために、もう随分と長くお越し下さっています。

心より感謝申し上げます。

お参りにお越しの皆さんに置かれましては、時にお花が売切れになり、ご迷惑をお掛け致していることもあろうかとは存じますが、その時は何卒、御許容下さい。

蓮華堂が売切れの時は、地藏堂を覗いて見て下さい。ポットではなく花鉢に入れるタイプの花束ですが、残っている時もありますので。

10月も既に随分な日を重ねました。

寒さも厳しくなってきています、元気に今年の残りを過して行きたいものです。合掌