「諦める」とい言葉。

2022.10.14

京都東福寺霊源院の水子供養ブログ

「諦める」とい言葉

最近の思いですが、個人的に「諦めるしか仕方がないか」という出来事がありました。普段に使われている自分の願い事が叶わずそのことへの思いを断ち切るという意味で「あきらめるしかないな」と自分へ使った言葉です。

そうです、断念、ギブアップ等の後ろ向きの意味で自分へ語りました。

そうです、今風に言えば「ネガティブ」ということになりましょうか。

どなたもそうかと思いますが、この言葉を頻繁に使うのは年齢を重ねるごとに増えていくような気が致します。若い時には、例えば失敗、或いは大切な物を失っても、又、取り戻せる、そして「なにくそ」という言葉に励まされ、ぐいぐいと前へ進んで行けてたように記憶致しています。

それが、加齢と共に「まあ、しょうがないな、諦めるか」と自分へ答えていることが多いことに気が付きます。

しかし、この言葉は仏教から来ている言葉です。

この諦めるという言葉は本来仏教から来ている言葉で本来的な意味はネガティブの真逆、ポジティブに非常に近い言葉になろうかと思います。

「諦観」(たいかん)という言葉があります、物事をつまびらかに致す、或いは「明らかにする」という意味です。さらにはその言葉のの意味からもお分かりのように仏教的には「真理、道理」を指し示します。

それを、考えますと極めて前向きな言葉であることがお分かりいただけると思います。

お釈迦様、仏教の教えでは私たちの苦しみ、苛立ちの原因は私たち自身の限りない欲望、無知にあるのに、私も含め多くの皆さんは、ともすると思うようにならぬことの壁に突き当たった時に社会とか他人のせいにしたりする傾向があるように思います。そして、それを理由に後ろ向きに諦めるしか、仕方ないなと納めていることは無いでしょうか。

本来的な諦めるという言葉の意味、明らかにするという意味に立ち返り考えれば、自分の行い、考え、或いは今の現状を冷静に見つめ切れば、その苛立ちの原因がこの私の無知、欲にあると気が付くことが出来ます。

そこから、正しく前へ進めれば本来の諦めの意味が実現し、別な新しい私の世界が広がるのではないでしょうか。

蓮華堂へお参りの皆さんもこの「諦め」の意味(真理を求める)を味わい頂きたく思います。

止むを得ず、赤ちゃんとご縁を結ぶことが出来なかった方々、赤ちゃんとの縁を一日千秋の思いで待っていたのに実現が叶わなかった方々、蓮華堂、絆縁堂へお参りの皆さんは様々な想いを持ち、お参りにお越しです。

勿論、赤ちゃんへごめんなさい、良き世界へ転生下さい、或いは、新たな命と縁をお繋ぎくださいとの願い。そのことは決して間違ってはいません。

しかし、上で述べましたように、後ろ向きの「諦め」ではなく、仏教的な「諦め」を心で問うて頂きましたら、どなたにも新しい想い、世界が開けるように思います。

お堂へお参りの節にはそんなことも考えてお参り頂きましたら、嬉しいです。

未だ、暑い日々が続いています、しかし、そう遠く無い時期に寒さがやって来るようです。是も又、自然の有り様なのですが、体調管理は自分で致すしかありません、くれぐれも油断せず、健康を保ち、良き日々を積み上げて行きたいものです。合掌